"Auld Lang Syne" 「蛍の光」


序にかえて

 この歌を取り上げた理由は、単に筆者がこれが最も好きなスコットランドの歌の一つだということだけである。この美しいメロディーがどこから来て、どのような経緯で日本人に親しまれるようになったのか、それを紹介したいという気持ちから書いたものである。
 我が国では、この歌をスコットランド民謡とすることがあるが、(民謡をどう定義するかで変わることもあり得るが)下に書いたようにその扱いは必ずしも妥当とは言えないかもしれない。また、この曲をスコットランドの代表のように取り上げるのは、その来歴からして好ましくないと考える人もいるだろう。しかし、その来歴に小市民的あるいはブルジョア的な事情があるにしても、それを理由にしてつまらない、価値の低いものだと評するとしたら、それはかつてどこかの国がやった「ベートーベン批判」と同次元ではなかろうか。


「蛍の光」は"Auld Lang Syne"

 「蛍の光、窓の雪」と、学窓からの旅立ちを歌ったこの曲は、我が国では卒業式だけでなく、別れの歌の定番である。(聞いた話では、台湾でも卒業式に歌うそうである。戦前、日本から持ち込まれたものらしい。)おそらく日本人なら誰でも、この美しい歌には、郷愁を喚起させ、胸を熱くさせられるものがあろう。卒業式の定番でもある「蛍の光」を、日本の歌と思っている人も多いようだが、もともとスコットランドの歌である。ただし、スコットランドでは別れの歌ではない。
 原題は「オールド・ラング・サイン」"Auld Lang Syne"。スコットランドでは国歌にも匹敵するもので、様々な集まりで歌われる。集まりの参加者が円陣を組み、最初は隣の人と手をつなぎ前後に手を振りながら歌い、二番ではテンポを上げ、両手を前で交差させて隣と手をつなぎ上下に振って歌う。
 この歌は、民謡と称されることが多いが、作詞者は分かっている。歌詞は、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズが、古くから伝わるスコットランドの伝承歌をもとに1788年に書いたものである。その詩の内容は、旧友と再会し昔を偲びつつ杯をあげようというものである。

  Should auld acquaintance be forgot, and never brought to mind?
  Should auld acquaintance be forgot, and days o' lang syne?
  For auld lang syne, my dear, for auld lang syne;
  We'll tak' a cup o' kindness yet, for auld lang syne.  (一番)

  注 auld = old  lang = long  syne = since, retrospective ago

 このように、我々が親しんでいる惜別の歌詞とは程遠い。同じ様な例は他にもある。例えば、「ライ麦畑で逢い引き」が「故郷の空」になったり、「アニー・ローリーよ、お前のためなら死ねる」という内容の歌が、紫式部・清少納言の事を歌う「才女」になったり、アイルランド民謡の「夏の最後のバラ」が「菊」(「庭の千草」)になったり等というように。もっとも、現在ではむしろ「アニー・ローリー」が「才女」という題で存在することを知る人の方が少ないであろうが。

小学唱歌「蛍」成立事情

 「蛍の光」などいくつかの外国の歌が、原曲とは異なる歌詞で日本人に知られている理由は、これらがもともと小学校の唱歌として、教育の場を通して広まったことにある。
 「蛍の光」(原題は「蛍」)の作詞は、東京師範学校の稲垣千頴(いながき・ちかい)である。明治14年に出された我が国最初の音楽の教科書「小学唱歌集」に収められた。(松本の開智学校にこの本が展示されていたのを見たことがる。)
 明治初期から始まった我が国の音楽教育は、伝統的な日本音楽を捨て、西洋音楽を採用した。そして、その最初の作業の一つが唱歌集の編纂であったが、「教育的」な歌詞を付けるため、国文学者がこの作業に動員された。稲垣千頴もその一人であった。元曲とは無関係に歌詞が付けられたのは、こうした事情があった。つまり、学校で生徒に歌わせる歌が、酒や恋愛の歌ではよろしくないわけである。実際「蛍」は、最初提出されたものに、男女の情愛を思わせ、教育の場にふさわしくないというクレームが付いて、変更された歌詞が今日に伝わっている。因みに、現在「蛍の光」は普通二番までしか歌われないが、もともと四番まであり、後半は「お国のために働こう」という内容である。

なぜ親しみがわくのか

 「蛍の光」のメロディーは、ジョージ・タムソンが発表したものである。バーンズの「オールド・ラング・サイン」には、最初別のメロディが付けられていたが、バーンズの没後1799年に付けられた曲が今日では一般的である。
 さて、「蛍の光」は、言うまでもなく我々日本人に最も親しまれている外国の歌曲の一つであるが、例えば隣国の中国の歌でこれほど日本で親しまれている歌は無いのに、遠く離れたスコットランドの歌がこれほどまで日本人に愛されているのはなぜであろうか。もちろん、稲垣千頴の美しい詩もその理由の一つであるが、既に多くの研究者によって指摘されているように、「蛍の光」が他の多くのスコットランドの歌と同様、日本の伝統的な音階と同じ音階で作られていることも大きな理由であろう。つまり、「蛍の光」などは、いわゆる「四七抜き(よなぬき・ファとシがない)」の五音階で、日本の伝統的な音階と同じである。多くのスコットランドの旋律が日本人の心の琴線に触れるのは、この点にあるであろうし、さらに唱歌に採られたのもこの故であるかもしれない。事実、文部省の委嘱で唱歌選定を一任された「お雇い外国人」の米国人教育学者ルーサー・W・メイソンは、日本の生徒に西洋音楽を教える困難さの中で、ファとシを歌えないことを挙げている。

讃美歌370番との関係

 ところで、「蛍の光」は讃美歌370番「目覚めよ我が霊」としても知られている。讃美歌集を見ると、元となった英語の詩は1755年のフィリップ・ドッドリッジの作となっている。バーンズの詩よりも33年も前である。これはいかなる事情によるのかは寡聞にして知らないが、メロディーがタムソンが付けた頃の成立なら、「オールド・ラング・サイン」が広まり、そこに古くからあるドッドリッジの詩が付けられ讃美歌に取り入れられたものと考えるのが妥当なところであろうか。ちなみに、日本には唱歌としてより讃美歌として伝えられたのが早いと言う。
 アメリカのロジェ・ワーグナー合唱団は、「時は去り、時は来る。幸い君にあれ。されど我は惜しむ、かの日々を。かのゆかしき昔を。」(筆者訳)と、バーンズの詩には無い歌詞を歌う。アメリカなどでは、ゆく年を惜しみつつ新たな年を迎える歌として大晦日・元日に歌われることが多いそうである。「蛍の光」が我が国にもたらされたのは、スコットランドからの移民の多いアメリカ経由である。しかし、メイソンがなぜ唱歌にこの曲を採用したのか、事実は依然不明のままである。


参考文献
山東功 唱歌と文典−明治前期唱歌教材と音楽取調掛員− 「女子大国文」52 2001.3


 

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